dictionary ガチャ、ガチャリ パチッ  蛍光灯の白い光が、部屋を照らし出した。零一は無言のまま靴を脱ぎ、軽く揃えてから部屋に入る。何事もきちんと整頓されていないと気が済まない性質だ。 (世間には誰もいない部屋に向かって「ただいま」などという輩もいるらしいが、全く無駄な行為だ。)  完璧に片付いている部屋。見ようによっては殺風景にも見えるが、無駄を嫌う零一にとっては最高の環境に整えてあった。  零一はスーツを脱ぐと、皺にならぬよう慎重にハンガーにかけた。 スーツを着ている間は表の顔、すなわち教師氷室零一である。そこには一分の隙さえあってはならない。服装の乱れは心の乱れにつながる。零一は常に身だしなみの管理を怠ることはなかった。  しかし、最近になってきっちりと管理されているはずの零一の生活を乱すものが現れた。 広院 咲。  零一が担任する学級の女生徒。成績優秀でスポーツもでき、クラブ活動にも熱心だ。零一が理想とする生徒であることは間違いない。しかし、生徒という存在以上に広院を意識している自分に零一は戸惑っていた。今までに数度、ドライブなどに連れ出してはいるが、そうしたくなる理由は単なる気まぐれだと決め付けていた。 (今日もカフェインを過剰摂取してしまったな。)  広院のアルバイト先である喫茶店、そこでコーヒーを飲むことが半ば習慣になりつつある。カフェインは胃を荒らす、と寝覚めの一杯以外は口にしないと決めていたはずだった。そんなルールはいつのまにか破られていた。  広院の淹れたコーヒーは口にするたびに味わいを増していく。彼女の技術が向上しているからだ、と自分を納得させてはいるが、コーヒーの味がそれほど変わるはずもなく、何かしら他の要素が介入していることに零一自身気付いていた。  最近、眠りが浅いのも、カフェインのせいにしている。夕方に飲んだ一杯のコーヒーが深夜にまで影響を及ぼすことがまずないのはわかっている。しかしそうとでもしておかなければ、不眠の原因に思い当たらない。答の出ない問題は、零一を不快にさせるだけだ。  零一は冷蔵庫を開けた。半切りにしたグレープフルーツを取り出す。スプーンで一房をすくい出すが、口に運ぶ気になれない。  食欲も落ちている。決まった量の、決まった食事を続けることに何の疑問も抱いたことはなかった。食に対する欲求など皆無だった。しかし吹奏楽部の夏合宿で、彼女の凝った手料理を口にして以来、忘れられなくなった。もう一度あれを食べてみたい、と思いはするが、この先そのような機会がないことは明らかだった。 (卒業、してしまうんだからな・・・。)  全く進まない食事は中断することにし、ビタミン剤だけを流し込む。これだけでは健康を保てないことは重々承知だが、採れない物は仕方ない。明日の授業の準備をするため、デスクに向かった。  明日の担当は、文系クラスの数学。受験に必要ないからと授業を聞かないものも多い。しかし零一は手を抜くことなく、厳しく指導している。零一なりに必要最低限の範囲を選び、彼らが理解できるように噛み砕いているつもりなのだ。しかし授業について来れている生徒は少ない。 (この問題を正解できるのは、広院くらいのものだろうな・・・。)  またも零一の思考の中に、広院が侵入していることに気付き、零一はため息をついた。一人の生徒に偏重することなど、今まで全くなかった。成績優秀だからといってひいきにすることはなかったし、できない者を見捨てることもしなかった。何故広院のことだけがこんなにも気にかかるのか・・・。  授業の準備は全くといっていいほど進んでいない。これ以上続けても能率の向上は望めないことを悟った零一は普段より数時間早く、床に入る準備を始めた。 (疲れているのかもしれない。ゆっくり風呂にでもつかれば眠れるだろう。)  いつもより長めの入浴を終え、ベッドに入る。目を閉じて眠ろうと勤めるのだが、なかなか眠気は訪れてこない。  仕方なく零一は音楽を聴くことにした。零一の場合、音楽鑑賞にレコードなどは必要ない。一度聞いた演奏を頭の中で再現するのが零一の特技だからだ。零一は、先日聞いたKCH交響楽団の演奏を思い出そうとした。  しかし、思い出されるのは一緒に連れて行った広院の表情ばかりだった。  第一楽章の序奏では、不安げな曲調に合わせるように顔をしかめ、第二楽章のコラールには、うっとりとしたように目を細め、第三楽章のスケルツォでは軽快なリズムに合わせて指先を動かし、第四楽章のダイナミックな旋律には楽しそうに身を乗り出していた。  あの時は純粋に演奏を聴いていたつもりでいたのに、こうして思い出してみると、いつのまにか演奏は単なるBGMと化し、くるくる変わる広院の表情を楽しんでいたことに気付いてしまう。 (何故こんなに気にかかる?広院の何が?・・・全く、どうかしている・・・)  零一は、史上最大の難問にぶち当たった気分になっていた。自分が置かれたこの状況をなんと説明すべきなのか。謎を解こうとむきになればなるほど、眠りは遠ざかっていった。 (完全な不眠症だ・・。医者に行くべきだろうか?)  零一はまだ気付いていない。彼が完全と信じている彼の辞書には、重大な落訂があるのだ。運悪く袋綴じになってしまったそのページには、こんな単語が書いてある。 「恋わずらい」 そして、その病は医者には治せない、とも。 零一がその落訂に気付くのは、もう少し先のようだ。 Fin