Fire Wall 日曜日の午後。私の部屋。 私は月曜日からの授業の準備に暇がない。 それはいつもの光景だ。 いや、ひとつだけ、違うところがある。 それは、私の部屋に広院咲がいるということ。 今まで、私の部屋に私以外の人間がいることなどなかった。 誰かを招きたいとも思っていなかった。 しかし今、彼女とこの空間を共有することに格別の喜びを覚えている。 彼女は大人しくソファーに座り、本のページを捲っている。 私が見つめていることに気付くと、ゆっくりと微笑んだ。 私だけに向けた微笑。 「なんですか?」 「いや・・・不思議なものだな。」 「えっ?」 「君が、私の部屋でこうしていることがだ。」 「ふふっ、私も、ついこの間まで想像もしてませんでしたけど、でも・・・」 「でも?」 「すごく嬉しいですっ!」 そう言うと広院はソファーを降り、私の首に飛びついてきた。 「こら、やめなさい。」 「いいじゃないですかぁ。」 「仕事ができないだろう。」 「零一さんが先に私の読書の邪魔したんですよ?」 「邪魔などしていない。・・見ていただけだ。」 「言い訳苦しいですよ〜、先生。」 「・・とにかく、離れなさい。」 「そんなこと言ってるなら・・こうしてやるぅ!」 一瞬の隙を突かれ、眼鏡を奪われた。広院は眼鏡を持ったまま、部屋の隅に逃げる。 「あっ、こら!」 「ちゃんと離れましたよ。先生。」 「こんなときだけ先生と呼んで・・・。いいから早く返しなさい。」 「イヤです。」 「・・・怒るぞ。」 「や〜ん。先生こわ〜い。」 全く、なんという会話だ。しかし、悪い気はしない。むしろ楽しんでいる自分に内心驚く。 (俺も変わった、ということか・・・?) ぼやけた視界の中、眼鏡を奪い返そうと広院を追いかける。 「いいかげんにしなさい。それがないと、何も見えない。」 「わーい、鬼さんこちら♪」 捕まえようと手を伸ばしても、寸前でかわされる。視力の面で、相当こちらの分が悪い。 広院は私をからかうように部屋の中を飛び回る。 しかし私もからかわれているばかりではない。見えずとも、私の部屋である。 私は巧みに広院を部屋の隅へと追い込んだ。 「さあ、もう観念しなさい。もう逃げ場はない。」 「逃げる? 私は零一さんから逃げたりしませんよ?」 「なっ、何?」 「ずっと、側にいたいんです。」 「・・・咲・・・」 「隙アリっ!」 そう言うと広院は私の脇をすり抜ける。 慌てて踵を返すと、何かに躓いた。 「キャっ!」 広院を巻き込んで、床に倒れこむ。 「すまない、大丈夫か? どこかぶつけたりは・・・」 「大丈夫です。私のせいだし。」 「いや、躓いたのは私だ。」 「零一さんが躓いたの、私の本です。さっき、床に置いたから・・。」 「・・・そうか。」 「ごめんなさい。」 「いや、いい。そんな顔をするな。」 広院は私の眼鏡をかけて、今にも泣き出しそうな顔をしている。 「ふざけた罰だ・・・。」 「・・・見えてるの?」 言われて気付いた。眼鏡なしで表情が見える距離、約15cm。この体勢は・・・。 「零一さん?」 理性は、『直ちに体勢をたてなおせ』と警告している。しかし身体はそれを無視した。 「似合わない・・・。」 「えっ?」 「眼鏡だ・・。」 ゆっくりと、彼女から眼鏡を外してやる。 「咲・・・。」 軽く、くちづける。そして、深く。 痺れるような感覚に、眩暈を起こしそうになる。 唇を離すと、広院の表情が目に入った。緊張した面持ち・・・。 とたんに高校時代の彼女がフラッシュバックし、理性が主導権を取り戻した。 慌てて起き上がる。 「ゆ、床に寝ていると体を冷やす。早く起きなさい。」 「・・・はい。」 奪い返した眼鏡をかけながら、考える。 (どうも、眼鏡を外すと理性のコントロールが効かなくなるようだ・・・。次にこれを奪われたら、きっと・・・。氷室零一のファイアーウォールは、案外、脆いな。) いつのまにか起き上がった広院が、また私の首に腕を回して言った。 「先生、さっきみたいの、またしてくれる?」 「・・・先生と呼ぶな。」 広院の腕が当たってずり落ちかけた眼鏡を、きちんとかけなおす。 この、無邪気なハッカーに、セキュリティを突破される日は、近い。 Fin