抜駆紳士


放課後、本日の仕事を終えた私はデスクの整頓をし、帰り支度に入っていた。
急げばまだ彼女の下校に間に合うかもしれない。奇遇を装って声をかければ、
また彼女は私と帰路を共にしてくれるだろうか・・・。

普段なら最後にデスクを水ぶきして塵ひとつ残さぬ状態にしていくのだが、
今日はその手順をすっ飛ばして帰ろうと立ちあがりかけたとき、背後から声をかけられた。

「氷室くん、ちょっといいかね。」

天乃橋理事長だ。
先代の後を継いで若くして理事長という職につき、当初は大いに不安がられたらしいが、
その手腕で現在は他の理事やPTAから絶大な信頼を得ている人物だ。しかしその反面、
あらゆるものに対して少し感傷的に過ぎる嫌いがあり、そこは私と相容れない所である。
また彼の親友だという花椿なる人物がしょっちゅう構内をうろついているのも気にかかる。

「理事長、なんでしょうか?」
「ちょっと君に頼みたいことがあるんだが、引きうけてはくれないかね?」
「用件にもよります。」
「ハハ、厳しいね。実は、明日の理事会で使う資料をまとめなければならないんだが、
私は統計が苦手でね。もう何週間も頭を悩ませているんだが、一向にできないんだ。
こういうのは氷室くんなら得意だろうと思ってね、お願いできないだろうか。」
「理事長、ご自分のことはご自分でされないと進歩は望めませんよ。」
「わかっているよ。しかしね、もう私は数字を見ると頭が爆発しそうなのだよ。」
「数字を見て頭が爆発するなどということはありえません。」
「ああ、そうだね。私の言い方が悪かったよ・・・。頭は爆発しない・・・。とにかく、私の力では
とても明日に間に合いそうにないんだよ。私の首をつなげると思って、頼まれてくれないかね。
そうだ、ボーナスにプラスαしてもいい。どうだね?」
「理事長、私は金銭につられるような人間ではありません。」
「・・・そんなつもりで言ったのではないんだ。しかし、君に引きうけてもらえなければ私は・・・
ああ、この世の終わりだ。」
「理事長、以前から申し上げていますが、理事長のご意見はいつも感傷的に過ぎます。
もう少しフラットな物の見方はできないのですか。いちいち感情の起伏が激しくては疲れるでしょう。
仕方ありません、今回だけはお手伝いしましょう。しかし次回はありませんよ。」
「本当かい?いや、恩にきるよ氷室くん! 君は私の命の恩人だ!」
「理事長・・・、先程の私の話を聞いていたのですか?大げさです。」

という成り行きで余計な仕事を引きうけることになってしまった私は、理事長から預かった
分厚い資料を手にさっき片付けたばかりのデスクに再び向かい、ため息をついた。
これを終えてからでは、とても下校する彼女を捕まえることなどできない。
なにも彼女と共に下校できるのが今日だけ、というわけではないのだからと自分を納得
させるのだが、完全に気持ちがそちらに向かっていただけに、複雑な心はなかなか晴れない。
しかし、なんとか気を取り直して、資料を開いた。

どうやらまとめなくてはならないのは生徒の総合成績と進学、就職率の相関らしい。
私も毎年進路指導のため同様のものを作成しているが、それよりもずいぶん基準が甘い。
これで有用な資料といえるのかいぶかしく思いながら、さらに資料に眼を通していくと
とんでもないことが発覚した。成績のデータと進学・就職率のデータの年度が違うのだ。
これで統計をとっても全くの無意味だ。しかもデータが古い。少なくとも3年は前のものだ。

理事長は何週間も前からこれに関わっていると言ったが、こんな初歩的なミスに、何日も
気付かないものだろうか? 壁の予定表に眼を走らせる。するとまた驚くべきことがわかった。
定例の理事会は先週終わっている。次の予定は来月だ。

「これは一体どういうことだ・・・」

単なるミスで、このような事になったとは到底思えない。とにかく事の次第を確かめるべく理事長室に
向かおうと席を立つ。ちらりと窓の外の景色が眼に入り、そこに茶色のスーツを認めた。理事長だ。
なぜあんなところに、と思うより先に、彼が話している相手が眼に入る。だ。

頭が答えを出す前に体が動いていた。衝動が私を動かしているのは分かった。しかしそれが
なんの衝動なのかはわからないままに。内履きのまま、必死に走る自分が滑稽だった。

「ハア、ハア・・・理事長!」
「ひ、氷室くん・・・」
「あ。氷室先生。どうしたんですか?そんなに息切らせて。」
「・・・な、なんでもない・・・」
「氷室くん、お願いした仕事は終わったのかね?」
「いいえ・・・先程お預かりした資料ですが、データの年度が違っている上に古いデータです。
あれで有意義な資料が作成できるとは思えませんが。」
「そ、そうだったかね。それはすまなかった。氷室くん、新しいデータを探してはくれないか。
なにしろ明日までに仕上げなくてはならない資料だからね・・・・」
「明日、何があると言うのです?」
「さっき言ったじゃないか、理事会だよ。」
「理事会は先週だったのではないですか?」
「・・・あ、いや、緊急の理事会が入ってね・・・」
「緊急の理事会の資料をなぜ何週間も前から準備しているんです?」
「そ、それは・・・」
「理事長、納得の行く説明をしてください。」
「いや、それはだね・・・」
「なんです?」
「まあ、氷室くん、そんなに目くじらを立てずに・・・」
「納得の行く答えを頂ければそうしましょう。」
「だって、ほら、彼女も怖がっているじゃないか。」

そう言われてを振り返ると、確かに剣幕に押されて萎縮しているように見える。

「いえ、わたしは・・・」
「ああ、、君はいいから帰りなさい。」
「ちょっと待ってくれ、氷室くん。彼女はこれから私が車で家まで送っていこうと・・・」
「なんですって?」

ようやく線が一本につながった気がした。理事長の目的はこれだったのだ。
私を遠ざけ、を誘うこと・・・。

「理事長、彼女の家はここから十分徒歩圏内にあります。車での送迎など必要ありません。」
「氷室くん、それは君に言われたくない。君だって彼女を自分の車に乗せているだろう。」
「それは彼女の家が私の帰路にあるからです。一人乗るのも二人乗るのも消費コストは
変わりません。しかし、理事長のお宅は学園のすぐ裏です。彼女を送るためにわざわざ
車を出すのはエネルギー上も環境上も好ましくありません。」
「しかし、レディを送るのは紳士のつとめだよ。」
「彼女は私のクラスの生徒です。理事長の手を煩わせることはありません。必要なら私が送ります。」
「なぜ私が彼女を送ってはいけないんだい?」
「いけない、とは言っていません。合理的なのはどちらか、という問題です。」
「氷室くん、全てのものを合理的かそうでないかで判断するのはどうかと思うがね。」
「そうでしょうか?」
「そうだよ、無駄のように見えることを敢えてする、それが心のゆとりというものだ。」
「私には理解しかねます。」
「そうかね。それは残念だ。では私は私の好きにさせてもらうよ。さあ、くん、行こう。」
「待ってください、その必要はありません」
「氷室くん、そんなに私に彼女を送らせたくないのかね。じゃあ、こうしよう。彼女に選んでもらうんだ。
さあ、くん、私と氷室くん、どちらに送ってもらいたい?」
「あの、わたし・・・」

理事長は事もあろうに究極の選択を彼女にぶつけた。
は私達二人の顔を見比べながら今にも泣きそうな表情をしている。
彼女にこのような選択をさせるのは酷だと言うことを私は十分承知している。彼女の性格上、
明らかにどちらかを傷つけるような回答はできないだろう。早く、この葛藤から彼女を解放して
やりたい、しかし私は引くことができない。ただ無言で、困り果てる彼女を見つめることしかできない。

私達三人のただならぬ雰囲気に、下校する他の生徒達は遠巻きに興味深げな視線を送ってくる。
当たり前だ。大の大人が、しかも学園の理事長と教師が、一人の少女を前に言い争っている。
生徒の興味を引かないわけがない。明日以降の事を考えると頭が痛い。しかしそれでもこの状況で
1歩も引かない理事長の、そして自分の大人げなさに腹が立つ・・・。

くん、どうした?気にすることはない、正直に言いたまえ。」
「・・・・あの・・・・」

追い討ちをかける理事長の言葉にさらにの顔が曇る。やはりここは年長者を立てて、
私が降りるしかない。ここまでにしよう、という言葉が口にでかかった瞬間、闖入者は現れた。

「きゃっ!」
「あ、ごめんなさい、僕、本に夢中になってて前見てなくて・・・。痛くなかったですか?
ああ、さん。あなただったんですね。」
「・・守村くん・・」

良くこの中に割って入る勇気があるものだ、と思っていたら単なる前方不注意だったらしい。
しかし思いがけない守村の出現によって、の緊張は少しほどけたようだ。

「天乃橋理事長、それに氷室先生も、難しい顔されてますが、何か重要なお話でもされて
いたんですか?すみません、僕、邪魔しちゃって・・・。」
「ううん、なんでもないの、守村くん。それより、遅かったじゃない!」
「えっ? 遅いって・・・」
「今日、一緒に帰ろうって約束だったでしょう?」

守村の戸惑った表情からがとっさについた嘘らしいことは想像がついた。しかし、この状況を
脱するにはベターな選択と言わざるを得ない。決してベストではないが・・・。

「そう、でしたっけ?」
「うん、守村くんのお勧めの参考書、教えてくれるって言ってたでしょう?
・・・というわけで、約束があるので申し訳ないんですが・・・今日は失礼します。」
「ああ、寄り道はあまり感心しないが、用を済ませたらまっすぐ帰宅しなさい。」
くん、そういうことなら今日はあきらめるが、次は必ず送らせてもらうからね。」
「はい・・・・。」

守村と肩を並べて校門を出ていくを見送りながら、理事長はこんな捨て台詞を吐いた。

「・・・氷室くん、次のボーナスを楽しみにしていたまえ・・・・。」
「なっ、それは公私混同です!」

そのまま立ち去ろうとする理事長を追いかけ、なんとかその考えを改めさせようと説得をした。
一応は彼を論破したつもりだが、最終的には彼の一存で決まってしまう。非常に不安が残る。
正月に引いた大凶の効果がこんなところに現れたかと思ったが、笑いごとではない。
デスクに戻った私は、いまいましい資料を乱暴にゴミ箱に叩きこむと、職員室を後にした。

職員用の駐車場にはもう私の車しか残っていなかった。さらに近づくと、車の側に小さな
人影があるのを見つけた。この距離でも間違うことはない、だ。

「氷室先生!」
・・・どうした、君は守村と帰ったんじゃなかったのか?」
「そうなんですけど、途中で忘れ物に気がついたので守村くんには先に帰ってもらってわたしは
引き返してきたんです。」
「忘れ物か。一体何を忘れたんだ?」
「氷室先生です。」
「なに・・・・」

そう言って微笑むを、抱きしめたい衝動に駆られた。
忘れ物は私、か・・・・。

「天乃橋さんの手前、どちらかを選ぶなんてできなかったんですけど、やっぱり私は先生と一緒に
帰りたかったんです。守村くんにも悪いことしちゃったけど・・・・。」
「そうか。よろしい、では乗りなさい。誰にも見られないうちにな。」
「はい!」

そうして私は、彼女の家までの短いドライブを楽しんだ。
そしてさらに、週末の社会見学の約束もとりつける。もう、理事長に妨害などさせない。
彼女のベストアンサーは、私を選ぶこと。少なくとも私はそう信じている。


Fin


 



VS理事長。VS modeの中で一番「ガチンコ勝負」的に書いてみたつもりです。戦略は良かったけれど
詰めの甘い理事長がポイント、かな。結局理事長を未クリアのままこれを書いてしまったので、彼の
真髄(?)が出てないかもしれませんが、お許しください。後半の3眼鏡対決は、さき的に萌えですが
そのあとの展開はどうやねん、と自分に問い掛けております。先生勝つのはいいんだけどさ(笑)


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