進路指導 ある日の職員室。 「失礼します。」 丁寧にドアを開け、小柄な少年が入ってきた。 本日は進路指導の日、次の生徒は守村桜弥だ。 「座りなさい。」 「はい。」 腰を落ち着けるのを待って、資料を開く。 「君の成績なら、一流大学を目指すのが妥当だろう。学部は・・」 「氷室先生、そのことなんですが・・。」 「昨年までの進路調査では医学部、となっているな。」 「実は・・農学部に進んで森林の勉強をしようと思うんです。僕は、樹木医を目指したいんです。」 「ふむ。自ら決めたことなら私は反対はしない。しかし、険しい道だ。」 「はい、わかっています。父は、反対するでしょうが、必ず説得してみせます。」 「結構だ。今まで以上に頑張りなさい。・・しかし、そのような決断に至る経緯には何かあるのか?今までの君の行動パターンからは少し外れているような気がする。」 「えっ?あ、あの・・・まあ・・・あるといえばあるのかもしれません・・・。」 守村はなぜか顔を赤らめる。 「・・まあよろしい。君への進路指導はこれで終了だ。次の者を呼んできなさい。」 「あ、はい・・。ありがとうございました。はぁーっ・・」 「なんだ、大きなため息をついて。何か悩みでもあるのか。」 「いえっ、あの・・・」 「あるのかないのか、はっきりしなさい。」 「・・・・受験生には、恋愛をしている暇なんてないですよね・・・」 答えようとして、言葉に詰まった。 過去に同様の質問を受けたときには、『受験生に恋愛などもってのほかだ!』と即答していた。 しかし、今の私は、そう答えることができなかった。 広院咲に心を奪われている私には・・・。 「それは・・・難しい問題だな・・。」 「・・・」 「守村、君は恋愛と呼ばれる現象が単なる脳内物質のいたずらだということを知っているか?」 「クレンショー博士の説ですか?」 「そうだ。PEAという脳内物質が気分を高揚させ、肉体を興奮状態にする。いわゆる脳内麻薬だ。 それによる快感を得たいがために、人は恋愛をするといわれている。」 「その他にもアドレナリンやβエンドルフィンも作用するのですよね。」 「その通りだ。・・私は今まで、そのようなことに振り回されるのは愚かな人間だと思っていた。 しかし最近、一概にそうとも言えないと思い始めている。」 「はあ・・。」 「そもそも恋愛というものは生殖本能の延長にあるもので、日常生活には影響を及ぼさないものと私は考えていた。 しかし、脳内物質による肉体、精神の興奮状態は実際にはあらゆる範囲に作用する。時には不安や焦燥で苦しむこともあるが、大概においては、やる気を引き起こしたり、実力以上の力を発揮する原動力になったりする。 いわば・・・そうだな、生活の中の彩り、と言ってもいい。」 「そうですね。僕に、樹木医を目指す、という決意をさせてくれたのも、彼女の存在でした。 彼女がいなければ、僕は、決断することはできなかったでしょうね・・・。」 「そうか。それも恋愛がいい方向へ作用した一例と見ていいだろう。 ただし、くれぐれも夢中になってはいけない。学生の本分は勉強であるということを忘れないように。」 「はい、わかっています。ところで、今のは氷室先生の実体験ですか?」 「!?・・・ノーコメントだ。もう少し、節度ある質問をするように。」 「すみません・・・。」 「コホン、守村、恋愛をするのは良いが、君の、その、思い人にも「勉強の邪魔にならない程度に」ということをしっかり伝えておくんだぞ。」 「いえ、か、彼女とはそんな関係じゃないんです。僕が一方的に好きなだけで・・・。 それに、咲さんには他に好きな人がいるみたいですし・・・。」 「!!!」 「あっ、今僕・・・!な、何を言ってしまったんでしょう!?  先生、今の、聞かなかったことにしてください!!」 「おい・・守村」 「し、失礼しますっ!」 入って来たときとは別人のように騒々しく、守村は職員室を出て行った。 守村も、広院のことを・・・? なんとも複雑な気持ちだ。確かに広院は魅力的な少女だ。校内で人気が高いことも知っている。 しかし守村の生々しい発言が事実を浮き立たせる。 (11歳年下の少年が、ライバルか・・) 釣り合いということから考えれば、向こうのほうが圧倒的に有利だ。 しかも、私が困惑する「教師と生徒の壁」のようなものは存在しない。 もし私が彼女と同じ高校生で、同じ3年間を過ごしていたとしたら、私はこれほどまでに混乱することはなかったのだろうか・・・。 しかし、私たちはこの年齢差、この環境、このタイミングで出会った。その事実を変えることはできない。 ならば私は、この私にできる最大限の努力をするよりほかない。やっと気付いた、「彩り」を無に戻さないために・・・。 脳内麻薬は、きっと手助けをしてくれるだろう。 守村の言葉に、もうひとつ気になる個所があった。 「他に好きな人がいる。」 守村はそれが誰だか、知っているのだろうか。今からでも彼を追いかけて、問いただしたい気分に駆られる。 しかしそんなことはできない。わかったのは、ライバルは少なくとも二人ということか・・・。 (しかし、失言に気付いて慌てる前の恨めしそうな視線は何だったのか?) 時計を見て、次の生徒が来る時間であることに気付く。私は、守村桜弥の資料を閉じながら、舌打ちをした。 「例年と同じように返答しておけばよかったか・・・。」 Fin